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Posted by 滋賀咲くブログ at

彦根 慈眼寺の四季桜




 冬の日、金毘羅宮慈眼寺を訪れると珍しい風景に出会った。境内の入り口に、ユズの実がたわわに成っている。その横で、サクラの花が霞のように咲いている。
 暖冬のせいで咲き出したのかと思い、近くにいたお年寄りに尋ねると、冬と春に咲くサクラだという。
 彦根城のお堀端に二季咲桜と呼ばれる数本のサクラがある。井伊直弼が水戸浪士たちに討たれたという因縁を乗り越えて、明治百年を機に水戸市と彦根市の間で親善都市の盟約が結ばれた。ちょうど50年前のことだ。その時、二季咲桜が水戸市から贈られたそうだ。
 水戸の偕楽園には二季咲桜の古木があり、冬の名物の一つだという。四季桜という品種の一つで、12月から1月にかけて、寒の季節に長いあいだ咲いている。さらに春にもう一度咲く。
 慈眼寺の木は、彦根城の二季咲桜よりも若いが、同じ品種のように見える。そういえば、慈眼寺は「井伊家ゆかりの社寺めぐり」の一つに入っている。
 慈眼寺の歴史は古い。曹洞宗のお寺として建てられたのは、江戸中期の寛永年間。それ以前に天台宗の寺があったが、織田信長の近江侵攻によって焼失した。その後、荒廃していた寺が曹洞宗の寺として復興された。
 お寺の背後の山上に金毘羅宮があり、その境内から彦根の街とびわ湖が遠望できる。




  


Posted by 風まかせ at 11:26Comments(0)

木之本 明楽寺のクロマツ




 木之本の北国街道沿いに、「蓮如上人御舊蹟」と刻まれた大きな碑が建っている。浄土真宗の古刹、明楽寺である。参道が奥へ続き、大きな山門とマツの巨木が望める。
 毎年、蓮如上人の御影道中で、福井の吉崎御坊から京都の東本願寺へ帰る途中、道中の一行が明楽寺で宿泊する。
 「蓮如上人のお通り~」。5月5日、北国街道に御影道中の掛け声が響く中、御影と一行が明楽寺に到着する。
 江戸期、明楽寺は二度の火災に遭っており、本堂は江戸中期の安永年間に再興されている。境内にあるクロマツも、その頃に植えられたものだろうという。山門を覆うように、3本のクロマツがそそり立っている。
 「10年あまり前までは、もっと大きな木があったんですが」と、以前お寺に教えていただいた。たしかに、大きな切り株が3つ、山門の周辺に残っている。
 クロマツは葉を多く付けるため、枝が垂れ下がり、台風や雪の被害を受けやすい。6本の巨木が林立する様は、等伯の松林図屏風に描かれた絵のような、独特の風景だったかもしれない。





  


Posted by 風まかせ at 18:05Comments(0)

彦根市 薩摩・柳川のセンダン



  


Posted by 風まかせ at 17:05Comments(0)

彦根市 薩摩・柳川のセンダン




 彦根南部の湖岸道路を走っているときのこと。湖畔に沿って、黄色い花を付けた高木が点々と連なっている。季節は初冬、落葉樹の葉はすっかり落ちている。木々の向こうに湖面がキラキラと輝いている。
 近づいてみてわかった。黄色い花のように見えたものは、色づいた小さな実だった。センダンの木に実った淡黄色の実である。大豆より少し大きい。それが枝を広げた木いっぱいに無数に付いている。
 センダンは、5月に淡い藤色の美しい花を咲かせ、ほのかな香りを放つ。葉が落ちた冬の姿は想像できなかった。だが、センダンの名前は、一節ではこの実が語源だという。黄色に輝く実が枝一面に群がり「千団子」のように見える。それがセンダンになったのだという。
 センダンは、もともとは温暖な地方の、ことに海岸近くの砂地に適した木で、近江では彦根南部の湖岸域に多い。
 「湖畔に植栽文化を育てる会」を主宰した故川崎健史さんは、その著『湖畔の花と実』に、彦根市南部の須越町から新海町に至る湖岸のセンダンの分布状況を記している。およそ130余本の木があるという。
 その間の湖岸域は、延々と湖岸緑地が整備され、「近江湖の辺の道」という名前の遊歩道が付いている。




  


Posted by 風まかせ at 06:57Comments(0)

竹生島のモチノキ




 古来、人々は湖中に浮かぶ島を「神の斎く住まい」として拝してきた。それが竹生島の名の起こりだといわれる。
 島の桟橋に降り立ち、土産物店が並ぶ参道を抜けると、宝巌寺への急な石段が始まる。長い石段を上りつめると、左手に弁天堂が現れる。
 右手を見ると、もう一段の高みに三重塔が屹立している。朱塗りの三重塔は、ひときわ鮮やかである。江戸初期に焼失したといわれる三重塔が、平成12年に再建された。
 三重塔のそばに、傘型に刈り込まれたモチノキがある。片桐且元が植えたと伝えられる。
 慶長8年、且元は豊臣秀頼の命を受けて竹生島に観音堂や唐門、舟廊下などの普請をおこなう。多くの建物や彫刻を、秀吉を祀った京都の豊国廟から移したといわれる。そのときの記念として植えたのがモチノキである。
 モチノキは冬に赤い実をつける。しかし、且元お手植えの樹に赤い実は付かない。モチノキは雌雄異株である。雄花の咲く樹には実はならない。且元が植えた樹は雄株だったのだ。




  


Posted by 風まかせ at 09:16Comments(0)

米原市 寝物語の里のイブキ




 寝物語の里がある長久寺は、小さな村である。江戸時代、村にある25軒のうち近江側にある20軒は銀を使い、美濃側の5軒が金を使った。江戸時代の通貨制度では江戸が金本位制で、京・大坂は銀本位制だった。
 さらには20軒が近江弁で、5軒が美濃弁だったという。司馬遼太郎は『街道をゆく 近江散歩』でそのような話を紹介している。
 県境の小溝に立派な境界の碑が立っている。道を挟んで碑の反対側には、「永正山妙光寺 寺跡」と刻まれた石碑がある。寺の参道であったと思われる道を奥へ進むと、広々とした空間に一本のイブキの巨木が屹立している。寺の境内にあったイブキが、唯一残されたのだろう。
 妙光寺の境内跡に残されたイブキの木は、長久寺の象徴木のように堂々としている。イブキはヒノキ科の常緑高木で、ヒノキの葉に似て鱗片状の細い葉が茂る。ヒノキとイブキの葉は、別々に見ているとその違いに気づかないが、両方を手に取って見比べると違いは明瞭である。イブキは寺社の境内に植えられることが多く、長寿の木で樹齢千年を超えるものも少なくない。
 イブキの名は、石灰岩の伊吹山に生えていたことから名づけられた。伊吹山はわが国の西と東を分ける分水嶺にある。長久寺のイブキは、やはり寝物語の里の象徴木である。



  


Posted by 風まかせ at 21:57Comments(0)

高月町 赤後寺のモミノキ




 コロリ観音の名で知られる赤後寺の境内に、モミノキの大木がある。赤後寺は湧出山の山腹に建っており、南に広がる唐川の集落を見渡すように佇んでいる。
 往古、湧出山は賤ヶ岳から山本山へ連なる山並みから東へ張りだした支脈だった。そのため、余呉から南下する川の流れは、湧出山の北でせき止められて沼地になっていた。
 そこで、弘法大師が湧出山の西側を掘って水を南へ抜いたところ、沼が枯れて川が空になった。そんなことから、その地が空川と呼ばれるようになったという。
 赤後寺の境内は二段になっている。石段を上って鳥居をくぐると、手水舎のある下段の境内があり、さらに石段を上るとスギの巨木群に守られるように建つ観音堂が現れる。
 二段になった境内には、スギの巨木が林立している。下段の一角にモミノキが2本混じっている。
 モミノキは冬の間も濃い緑を保つため、強い生命力の象徴とされる。フィトンチッドを多く発する木としても知られる。クリスマスツリーとして使われる由縁である。
 洋の東西を問わず、モミノキは神聖な木として崇められてきた。赤後寺にある2本のモミノキも、神仏を守る木として植えられたのだろう。




  


Posted by 風まかせ at 20:36Comments(0)