大見のウツギ
2018年05月31日

大見の集落は高時川沿いにある。高時川と杉野川が出合う所に川合という大きな集落がある。ここから高時川を遡ると、大見を経て余呉町下丹生に出る。古来、この道は杉野谷と丹生谷を結ぶ幹線だった。
初夏、大見の辺りは、待ちわびたように緑の濃さを増していく。川合から大見までの高時川沿いは、高い杉木立ちにおおわれている。大見から下丹生までの川沿いは、明るい広葉樹林が多い。
広葉樹におおわれた道沿いに、5月末、ウツギの花が咲き出す。ウツギは低木で、根元から何本もの枝が株立ちする。その枝に、少し黄味を帯びた白い花が無数に付く。
ウツギは漢字で書くと空木。茎を折ってみると、中が空洞になっていることから、その名が付いた。卯の花ともいう。
陰暦の4月、卯月に咲くことから卯の花になったのか、卯の花が咲く季節だから卯の花月、つまり卯月と呼ぶのか。どちらなのだろう。
旧暦の4月は、5月末から6月にかけて。初夏にあたる。梅雨が始まる前の、野山が輝く季節だ。ウツギは渓流沿いに多い。
高時川は、両側を山に挟まれた大見の渓谷をくねくねと南へ流れる。美しい水が流れる川沿いの道に、白い花を付けた枝が張りだし、爽やかな渓流の風にふわふわと揺れる。
「夏は来ぬ」の唱歌に「卯の花の匂う垣根」という表現があるが、ウツギは匂わない。それほど美しく、盛りに咲いているということの形容だろう。雪が降り積もったように、ふんわりと咲き乱れるので、雪見草とも呼ぶ。

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00:36
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菅浦のアブラギリ
2018年05月26日

大浦から菅浦までは、葛籠尾崎の曲がりくねった入り江に沿って湖岸を走る。山が迫っていて平地はほとんどないが、湖が大きく陸地に入り込んだ辺りに、ゆるやかに農地が広がる場所が現れる。大浦から行くと、最初に現れる土地が諸河、次が日指と呼ばれる。
日指のびわ湖岸側は、明るい林が広がる園地になっている。ここにアブラギリの高木が3本あり、5月下旬、白い花が咲きはじめる。
名前のとおり、アブラギリは実から油が採れる。肉まんのように扁平な形をした実の中に、丸い種子が3つほど入っている。この種子を絞ると油が滲み出てくる。
江戸期まで、桐油は燈火用として盛んに使われたようだ。防水効果もあり、雨傘や雨合羽、提灯などにも塗られたという。菅浦の集落にある郷土資料館の前庭にも、アブラギリの木がある。資料館が建てられた時に、記念樹として植えられたものだという。
江戸期、菅浦は膳所藩の領地だった。菅浦から膳所まで、船でアブラギリの実や魚などの産物が運ばれたという。アブラギリの実が菅浦の経済を支える産物のひとつだったのだ。
菅浦でアブラギリの実が盛んに採られたのは、農地の少なさに関係していると思われる。胡麻や菜種を栽培するには広い農地が必要だが、アブラギリの木は山の斜面でも育つ。
アブラギリの木は、ふだんは目立たないが、花が咲く時期になると、その存在に気づく。一つひとつの花は2センチほど。小花が集まってブーケのような形に群がり咲く。菅浦の歴史を象徴する花である。

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15:51
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五村別院のセンダン
2018年05月20日

長浜市五村にある五村別院の境内に、大きなセンダンの樹がある。初夏を迎えると、枝一面に軽やかな葉とともに薄紫の小さな花を付ける。経堂の屋根を覆うように張る枝に、春霞のような花が咲く様は見事だ。
彦根南部の湖岸域や長浜市の豊公園にも、センダンの樹がある。独特の花模様は涼しげで、湖からの風がほのかな花の香りを運んでくれる。青い琵琶湖とセンダンの花は、初夏の陽射しのなかによく映える。温暖な地域の水辺に自生する樹だといわれ、寺社の境内にある樹は少ないように思う。
五村別院は、慶長2年に本願寺12世の教如上人を迎えるため、湖北の門徒衆が坊舎を建立したのが始まりと伝えられる。
ところが、その5年後に徳川家康が京都烏丸六条に4町四方の寺地を寄進し、教如は東本願寺を建立する。一説では、家康は豊臣秀吉の寄進による西本願寺と豊国廟を遮る位置に御堂を建てさせたのだという。
これにより本願寺は東と西に分かれることになるが、主のいなくなった五村別院は「元の本山」と呼ばれ、その後も湖北の門徒衆によって連綿と維持されてきた。
センダンには栴檀という漢字が当てられ、「栴檀は双葉より芳し」という言葉がよく語られる。だが、この栴檀は白檀のことで、南アジアなどの熱帯地方に自生する樹である。お釈迦様の物語にも白檀が登場するという。五村別院のセンダンは、そんなところに由来があるのかもしれない。

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08:54
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三島池のキショウブ
2018年05月10日

春が過ぎる頃、三島池の畔はキショウブの花で彩られる。とりわけ花が多いのは、池の北側にある女溜の方である。池の畔だけでなく、水深の浅い池面にもキショウブが群生する。
池に架かる八つ橋をめぐると、鮮やかな黄花のなかに包まれる。そんなキショウブのあいだを縫うように、マガモの家族がスイスイと泳いでいる。マガモの産卵は5月上旬。そして1か月ほど後に孵化する。
よく似た花にハナショウブがあるが、黄色い花は少ない。青紫や赤紫、薄紅など微妙な色合いを持ち、園芸種として人気がある。
キショウブは明治時代にヨーロッパからもたらされ帰化した花で、野生化して水辺によく目立つ。繁殖力が旺盛なのだ。そのためノハナショウブのような在来種を抑えてしまうこともあるという。
同じ頃、女溜を取り巻く林では、白い花を付ける樹が幾本か見られる。ひとつはニセアカシヤの樹。日本名はハリエンジュという。強い芳香のある蝶の形をした花を枝いっぱいに咲かせる。
もうひとつはエゴノキ。可憐な花を房状に付け、微かな芳香がある。たくさんの花が垂れ下がるように下向きに並び、見ていると楽しくなる花である。
池から里山の裾に沿って流れる、通称ホタルの川では、6月ゲンジボタルが乱舞する。三島池の周りに広がる公園や里山は、エゴノキの花が咲く頃がもっとも美しい季節である。

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22:16
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余語湖畔のサワオグルマ
2018年05月07日

5月上旬になると、余呉湖の東岸にサワオグルマの花が群生する。以前は湖畔の草地に咲いていたが、最近は湖を一周する道路の山側にも群生する。
賤ヶ岳の戦いのとき、柴田勝家方の武将佐久間盛政は、大岩山に陣取る中川清秀を攻めた。余呉湖畔で馬を洗っていた清秀配下の雑兵を急襲したのが、尾野呂浜といわれる辺りである。それが戦いの始まりとなった。
現在、尾野呂浜の周辺は広々とした草地が広がり、ところどころに駐車場が設けられている。サワオグルマは、そんな東岸の一帯に群生する。
下余呉に住む人の話によると、サワオグルマは30年近く前から見られるようになり、徐々に広がっているという。振り返ると、東の岸辺一帯に石積み護岸が施され、公園の整備と道路の拡幅が行なわれたのがその頃だった。
人の手によって、自然の植生は急激に変わっていくことがある。そのように記すと、サワオグルマは帰化植物のように思われるが、実は日本の特産種である。
漢字で書くと沢小車。日当たりのよい湿地や田の畦などに群生し、小さな車輪のような形の花を咲かせる。

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10:09
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木之本 轡の森のイヌザクラ
2018年05月04日

イヌザクラは、5月も連休を過ぎた頃、小さな花が咲き出す。薄紅色をした華やかな5弁の花びらではなく、白い小さな花が房状に付く。
十数年前、木之本町の街なかにイヌザクラの樹があると聞いて探して歩いたことがある。なかなか見つからずに、何人かの人にイヌザクラの在り処を尋ねたが、誰も知らないという。
樹は、建物に囲まれた神社の境内にあった。地蔵坂から細い路地を数十メートル入ると、轡の森と呼ばれる小さな広場が現れる。イヌザクラは広場を覆うように枝を広げている。
広辞苑で「いぬ」を引くと、「ある語に冠して、似て非なるもの、劣るものの意を表す語。また、卑しめ軽んじて、くだらないもの、むだなものの意を表す語」と書かれている。
ソメイヨシノが華やかで人工的な雰囲気がするとすれば、イヌザクラはその対極にある樹である。人が自然の樹に手を加えるはるか昔から、変わらず山野に生き続けてきた。質実とした力強さと素朴な美しさがある。
樹の前に、轡の森の由来を記した立て札が立っている。その昔、大音にある伊香具神社の神官が、木之本地蔵院の法要に参詣する折に、近くの小川で馬の轡と足を洗い、ここに馬をつないで地蔵院へ向かったのだという。
立て札には、鉄道唱歌に「豊太閤が名をとめし 轡の森は木之本の 地蔵とともに人ぞ知る」と歌われたことも記されている。
いわく、賤ヶ岳合戦のとき、秀吉は柴田勝家側の急襲を受けて、一夜にして大垣から戻ってくる。そのとき乗っていた馬が死んだのを哀れみ、轡の森に馬を埋葬し、使っていた鞭を挿した。すると、鞭から芽が出てイヌザクラになったという。

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17:07
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雨森芳州庵のヒトツバタゴ
2018年05月02日

雨森芳洲庵にあるヒトツバタゴは、大型連休の頃になると、枝一面に雪が被ったように白い花をつける。近くで見ると、切り紙細工のような細長い形をしている。
名前も珍しい。漢字で書くと、一つ葉田子。田子とはトネリコの美濃あたりでの方言名で、トネリコが複葉なのに対して、この樹が一ッ葉なので、そんな名前がつけられたようだ。
別名ナンジャモンジャノキともいわれるが、この名を持つ樹はクスノキやイヌザクラなど各地にあるという。つまり、何の樹なのかを知らない人が、たまたまつけた俗称が一定の地域の伝承として広まったわけだ。
ただ、多くの図鑑にはヒトツバタゴの別名がナンジャモンジャノキとして紹介されているから、珍しい樹の象徴ともいえる。
自生する地域が対馬と木曽川流域にほぼ限られているのも不思議だ。芳洲庵にあるヒトツバタゴは、友好の記念として対馬から贈られたものである。
芳洲庵の庭園に数本の樹が植えられているが、最初の樹が贈られてから30年以上が経つ。贈り主は対馬の中学校の教師である。
昭和55年、その教師が雨森出身と伝えられる芳洲の事跡を調べるためにこの地を訪れ、雨森に住む郷土史家で元教師の吉田達さんに苗木を贈った。吉田さんはそれを自宅の庭に植えて、丹精込めて育てたのだという。
その後、芳洲庵が開館したのを機に、ヒトツバタゴはその庭園に移植された。まもなく吉田さんは亡くなられたが、ヒトツバタゴはすくすくと成長して、毎年初夏になると雪のような花を咲かせている。
対馬の北端にある鰐浦の海岸沿いには、3千本というヒトツバタゴの大群落があるという。朝鮮半島はわずか50キロ先の地である。この樹の本来の自生地は中国と朝鮮半島だというから、鳥が実を運んだのかもしれない。
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21:27
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